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人権はどうやって学んだらいい?

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人権はどうやって学んだらいい?

執筆:敬和学園大学人文学部国際文化学科准教授/国際人権NGOヒューマンライツ・ナウ理事 藤本 晃嗣 

 

 私は、高校などからの依頼で、人権に関する講演をする機会を頂くことがあります。講演が終わった後、教員の方から、「人権を尊重するためには、心の教育が必要なんですね」という感想をいただくことが稀に(?)ありますが、実は私は講演でそんな話を全くしていなかったりします。私の経験からは、「心の教育」という言葉は教育現場では、「優しい心」、「他者への親切な気持ち」を育むことなどと同じ意味で使われていることが多いように思えます。果たして「優しい心」「親切な気持ち」で人権は守られるのでしょうか。

 

 この問題を考えるうえで、差別の問題を例にとってみましょう。差別をする人は一見、優しい心を持っていないように思えます。しかし、部落差別の問題で指摘されているように、部落差別をする人の中には、自身の行為が差別的ではないと信じ込むような人がいます。そうした人は、例えば、自身がもつ被差別部落出身者を避ける気持ち(忌避意識)から、身近な人が被差別部落出身者に近づくことを妨げる行動にでることがあります。この最たる例が、自身の子どもが被差別部落出身者の方と結婚することを反対するという親による結婚差別です。こうした親は、結婚に反対するのは自身の子のためになるとさえ思っているので、親切な優しい心をもつ人でしょう。しかし、その親切で優しい心は、結婚差別の対象となった結婚相手の心をあまりにも冷酷に傷つけたことには無頓着ですし、決して許される行為ではありません。でも、親はこうした行為を正当なものと考えていたりします。そう考えてしまう理由の一つが忌避意識です。忌避意識とは、被差別部落に関する根拠のないデマや嘘を信じることによって、被差別部落出身者を避けようとする意識です。つまり、結婚差別をなくすためには、この忌避意識を取り除かなければならず、そのためには、そうした意識の原因となった根拠のないデマや嘘が、文字通り根拠のないデマで、嘘であるという真実を教える必要があります。つまり、優しい心をもつようにだけの人権教育では、差別はなくならないのではないでしょうか(忌避意識については、人権啓発ビデオ制作委員会が編集した「今でも部落差別はあるのですか? マイナスイメージの刷り込み」(人権啓発ビデオ)2005年がお勧めです)。

 

 個人的には、部落差別を含む様々な差別問題が生じる原因の一つに、忌避意識を挙げることができると考えています。例えば、現在のコロナ禍における医療関係者への差別行為も、医療関係者は他の職業に就く人よりCOVID-19に感染する可能性が高いという根拠のない考え方から、医療関係者への忌避意識が芽生え、そうした意識をもった人が差別的な行為を行っているのではないでしょうか。大切なことは、医療関係者は、「感染防御を十分にした上で、対策や治療にあたっている」(厚生労働省、事務連絡、令和2年4月17日付https://www.mhlw.go.jp/content/000622822.pdf)という事実を学ぶことであり、それによって忌避意識を払しょくする取り組みをすることでしょう。

 

 人権教育では、まずどんな行為が人権侵害事例であるのかを知らせ、その原因に間違った認識に基づく忌避意識があるのであれば、事実を伝えることで間違った認識を取り除いていくことが、最も大切なことでしょう。ちなみに、文部科学省のホームページでは、「人権教育は、人権に関する知的理解と人権感覚の涵養」(人権教育の指導方法等 に関する調査研究会議「人権教育の指導方法等の在り方について[第三次とりまとめ]」平成20年3月)とあり、ここまで筆者が強調してきたのは、おそらく「知的理解」の涵養の必要性ということになります。なお、「人権感覚」とは、「人権の価値やその重要性にかんがみ、人権が擁護され、実現されている状態を感知して、これを望ましいものと感じ、反対に、これが侵害されている状態を感知して、それを許せないとするような、価値志向的な感覚」だとされており、「優しい心」や「親切な気持ち」だけでは得ることのできない「感覚」だということもわかります。もっとも、「知的理解」と「人権感覚の涵養」が人権教育の両輪であることは、言うまでもありません。

 

 さて、冒頭の話題に戻りますが、私は講演では、人権問題を紹介し、そこでどういった個別 具体的な人権が侵害されたのかを話すようにしています。個別具体的な人権として、平等権はもちろんのことですが、自己決定権、教育を受ける権利、信教の自由、表現の自由意見表明権といったものをよく紹介しています。そして、講演後に、人権をこのように個別具体的なものと考えることはとても難しいという感想をよく(?)聞かされます。この考え方が難しいのは、私の話し方が拙いのは 棚にあげておくと、人権とは具体的な大切な権利を集めたものの総称である(ラフ な定義ですが)との理解が広まっていないからではないかと思います。人権とは、はっきりとはイメージできない曖昧なもので、差別が起きた場合に問題になる概念 、といったあたりの理解でいると、人権が個別具体的であるという考え方は想定外のものでしょう。

 

 しかし、人権を個別具体的だと理解する必要性に気づかなければ、学校は生徒の人権を侵害する可能性をもつとの危惧を抱く機会を失うことになります。例えば、イスラム教を背景とする生徒に、学校で礼拝をする時間や機会を設けないことは、その生徒の信教の自由を侵害、制限することになります。しかし、信教の自由を人権であると理解できていないと、学校は大多数の礼拝を要しない生徒と同じ行動を、こうした生徒に何の疑問も感じずに要求してしまうでしょう。性的マイノリティの生徒への制服着用がなぜ問題なのかも、個別具体的な人権(例えば自己決定権)の視点から今一度、学校は考えてみるべきだと思います。かといって、大学での日本国憲法の講義のように、人権を個別的に一つ一つ学ぶ機会を、今の高等学校 以下の教育プログラムに組み込むためのよいアイデ アを私には持ち合わせてはいません。むしろ、現在目指されている日本の社会像が多文化共生社会であるのならば、その実現に必要な人権は何かを考えようというアプ ロー チが、人権を個別具体的に生徒と先生が学ぶ方法としてはよいのかもしれません。ちなみに、ここでいう多文化共生社会とは、外国籍の方も含めた、さまざまな背景をもつ個人が、尊厳を保ちながら共生できる社会のことを私は考えています。